漂は、落ち着いた様子で民兵達の中に入っていった。
「大王様!」
「大王様が我々の中に・・・」
「お怪我は大丈夫なのですか?!」
民兵達が走り寄ってきて漂の周りに集まってくる。
「心配をかけてすまない。たしかに怪我をしたが傷は深くはなかった。明日も戦場に出て、皆を鼓舞して回れると思う」
それを聞いた民兵達から再び大きな歓声が上がった。
大王嬴政の負傷という精神的な痛手に加えて、ここまで不眠不休で戦ってきたせいで、疲れが色濃く見えた民兵達の顔。
ところが大王が姿を見せて一言発しただけで、疲れ切って絶望感さえ見えた民兵達の顔に、みるみる正気が戻ってきた。
王の存在というのは、これほどのものなのか・・・
民兵一人一人に対してこれほどの影響力を持つものなのか・・・
漂はそれを肌で感じていた。
ここでどれだけ自分が大王嬴政になりきって、民兵達に力を与える事ができるか・・・明日からの戦いにも大きく影響してくる大切な役目だ。
漂は、一人一人の顔をしっかり見て、一言一言丁寧に語りかけた。
肩に手を置いたり、少年兵の目の高さにしゃがんで語りかける。
そうする事で民兵達の疲れた表情は一変し、目に輝きが宿り活力がよみがえってきた。
漂がここに来た時とは、まるで空気が一変していた。
「では次に回るところもあるので俺は行く。皆も明日に備えて少しでも体を休めてくれ。明日もまた語らうぞ」
その場を後にする時、民兵達の話し声が聞こえた。
「少しでも体を休めておこう」
「明日も戦うぞ」
「大王様は明日もまた来てくださるのかな」
「それなら明日もしっかり戦って、出来るなら生き残らないとな」
大丈夫だ。この調子でいける。
ただ姿を見せるだけでなく、大王として民兵達の中に入っていって直接語りかけ、鼓舞するという任務。
民兵達は大王様のあの演説を聞いている。
それに匹敵する雰囲気が自分に出せるのか・・・そう考えた時の漂の精神的重圧は大変なものだった。
気がついたら、すごい量の汗をかいていた。
無意識に相当緊張していたらしい。
民兵達から見えない所まで下がると、信と昌文君が待っていてくれた。
「やったな!漂!」
「ここで歓声を聞いていれば、何が起きたかは分かった。儂の期待した以上の働きだ。よくやったぞ。漂」
「ありがとうございます。この調子で、次も回ってきます。最初はかなり緊張しましたけど、何となく分かった気がします。それにしても大王様の影響力は偉大ですね。知ってはいましたけど肌で感じるとまた違うものがありました」
民兵達のところを全て回り終えた漂は信と合流して、政が休んでいる部屋に向かった。
もし眠っていたら起こしてはいけないと、音を立てないように静かに扉を開ける。
政は眠っているらしい。
規則正しい寝息が聞こえる。
足音を立てないように、ゆっくりと寝台に近づく。
さっき見たばかりだからそんなに急に変わるはずもないのだが、やはり顔色はまだ良くない。
血の気の失せた青白い頬、唇の色も白っぽくなっている。
この顔色だけ見ると、寝息が聞こえていなければ死んでいるのではないかと思ってドキッとしてしまう。
体を回復させようとする時は、少しでも眠った方がいい。
二人で言葉を交わせば話し声で政が起きてしまうかもしれないので、信と漂は互いの目を見交わして唇の動きだけで会話をした。
普段は騒がしい信も、政の体のことを本気で気遣っているのがわかる。
「ここで寝るか?」
「そうだな」
唇の動きだけで確認し合い、甲冑の音を立てないようにそっと床に腰を下ろす。
寝台が見える位置の壁にもたれて、二人並んで座った。
二人にとっても、少しでも体を休めて明日に備えなければいけないのは同じ事だ。
互いの目を見て、無言で拳を合わせる。
言葉に出さなくても、二人の思いは同じだった。
明日も必ず城を守り切って見せる。秦国に勝利を。
信と漂は、ウトウトと眠りかけながらどちらからともなく、相手の体にもたれかかるような体勢になっていた。
今ではもう遠い昔に思える下僕だった頃。里典の家の納屋で、二人で並んで寄り添って眠ったことを思い出す。
二人で天下の大将軍になる。
その夢は今も変わらない。
ただかっこよく眩しい存在として憧れていた将軍というものが、実際どういう存在なのか・・・あの頃よりは二人ともかなり理解していた。
政が目指す、中華統一。
それに向けて、俺達は大王を守る二本の剣として戦う。
今はまだ一国も滅ぼしていない段階で、逆に秦国が存亡の危機に立たされている。
けれど、今がどんな状況であっても、こんなところで立ち止まってはいられない。
小さく切り取られた窓から、朝日が差し込んできている。
二人とも朝早く起きる習慣だけは、下僕時代から染み付いていて変わらない。
壁にもたれた姿勢から、いつのまにか寄り添うように床に横になっていて、ほぼ同時に目を覚ました。
「幸先良さそうだぞ。漂。いい夢を見た」
「そうなのか。俺もだ」
「俺達が、黄金の甲冑を纏って戦場を駆け回る夢だ」
「奇遇だな。俺も同じ夢を見た」
「本当か?」
「ああ。不思議な事もあるものだな」
「もしこれが正夢なら・・・いや、正夢に決まってる。何たって二人同時に同じ夢を見たんだからな。滅多にねぇだろ。そんな事。そう思わねぇか?漂」
「それはそうだな。これが正夢なら、信と俺はこの戦いを生き残って、これからもずっと戦い続けて、将軍になっているという未来がある。という事は、ここで死ぬ事も無いし秦国が負ける事も無い」
「決まりだな」
二人は笑顔で拳を合わせた。
「大王様に褒美をいただけるのも決まりだ」
「俺も政から褒美もらうぞ」
「二人ともそこで寝ていたのか。何を朝から話している?」
政が、寝台に横になったまま顔だけ二人の方に向けていた。
「起きたか。政。今日いけそうか?」
顔色を見る限り、あまり昨日から変わっていない。
信も漂もそれに気がついてはいるが、信はあえて何でもないように声をかけた。
政は、寝台の上でゆっくり上体を起こした。
「大丈夫だ。信。疲れが溜まっているとは思うが、今日も頼むぞ」
「任しとけって」
「漂。昨日は俺の代わりでご苦労だった。ありがとう。歓声が聞こえたから、うまくいったと分かって俺も安心して眠る事ができた。昨日話した通り、俺は皆を鼓舞する方に回るからお前は信と一緒に戦場に入ってくれ」
「承知しました」
三人で話しているところに、昌文君が入ってきた。
「大王様。もう起き上がられて大丈夫なのですか?」
「大事無い。頼んでいた物は持ってきてくれたか?」
「はい。こちらに」
「何だ?これ」
信が無遠慮に覗き込む。
「へ?女が使う化粧道具じゃねぇの?もしかして政、女装でもすんのか?っ痛ってぇ!何すんだよ!おっさん」
昌文君が信の頭をゲンコツで叩いたのだった。
「この顔色では皆の士気も上がらないだろう。少し血色を足すだけだ」
「そっか。なるほどな。何か面白そうだし俺やってやろうか?」
「遠慮しておく。とんでもないことになりそうだ」
「では大王様。私がやりましょうか?」
「そうだな。では漂に頼もうか」
「何でだよ!?俺はダメで漂だったらいいのか?さっき時と全然違うじゃねぇか」
「漂の方が適任だろうな。それでは頼む。信。持ち場へ行くぞ」
「なんだよおっさんまで・・・」
信はブツブツ言いながらも昌文君と一緒に退出していった。
昌文君は、政の側に漂が居る時は、安心してその場を任せて離れるのが常になっている。
「では、大王様失礼いたします」
「よろしく頼む」
漂は、化粧道具の入れ物を開けて、取り出した物を並べている。
「俺は化粧道具など見たこともないから分からぬのだが・・・お前は扱いが分かるのか?」
「私も使った事はありませんが。王宮で過ごした期間に、女性達が使っているのを目にした事はあります。それで何となく・・・」
そう言いながら紅を手の甲に取って、色を見ながら政の頬にのせていく。
唇にも少し血色を足す。
漂の指で触れられるたびに、政の心臓がドクンと跳ねた。
政はそれを悟られまいと、つとめて無表情を作る。
政にとっては、漂と二人でこういう時間を持つのはしばらくぶりだった。
影武者として初めて王宮に来た時の一ヶ月間ほど、その後戻ってきてからしばらくは、剣術の稽古を一緒にやったり、身の回りの世話をしてもらった事はあった。
同じ寝台で眠るのも常だった。
今さら何も恥ずかしい事も緊張する事も無いのだが・・・
そう思っても、早くなっていく心臓の音が漂の耳にまで聞こえるのではないかとハラハラしてしまう。
「できました。大王様。これくらいでいかがでしょうか?」
漂はそう言って、政に手鏡を向けた。
さっきまでの血の気の無い青白い顔とはまるで違う、健康的な血色が戻ったかに見えるいつもの政の顔になっていた。
化粧でごまかしたというわざとらしさも無く、見事だ。
「お前は何をやっても器用だな。助かった」
「恐れ入ります」
昨日の怪我の大量出血で失われた血が一晩で戻るはずもなく、本当は起き上がれる状態ではない。
それでも、鏡で見た自分の顔が健康的に変わっていると、不思議と活力が湧いてくるものだ。
政は、ゆっくりと床に足を付けて立ち上がった。
「大丈夫ですか?大王様」
「一晩休んだら楽になった。今日は動けそうだ」
「無理はなさらないでくださいね」
「戦いに行くわけではないから問題ない。皆の士気を少しでも高められるように姿を見せるだけだからな。朝から用事を増やしてすまなかった。俺はもう大丈夫だ。持ち場へ行ってくれ」
「わかりました。大王様」
「夜はまた俺の代わりに民兵達の所を回ってもらう事になるが、よろしく頼む」
「承知しました。今日も必ず。昨日と同じ要領で大王様の代わりを務めさせていただきます」
「間違っても死ぬなよ」
「大丈夫です。必ず生きて戻ります。信と俺は、大王様の二本の剣ですから。二人で天下の大将軍になるまでは死にません」
漂はそう言って、快活に笑う。
「頼もしいな」
答えた政の言葉からは、二人が今日も戦い抜いて必ず生きて戻るという確信、信頼が伝わってきた。
政は言葉数が多い方ではないが、漂は政との接点が増えるほどに、言葉以上の気持ちを受け取るようになっていた。
今の漂は、大王の代わりの時の昨夜の煌びやかな甲冑は脱いで、通常の戦闘用の甲冑を纏っている。
信と同じく、まだ線の細かった少年の頃とは違って、体格もだんだん大人の男に近づいてきた。
戦場に行くたびに武功を挙げ、見た目にもその変化がはっきりと分かるほど強く逞しくなって帰ってくる。
この戦場では、政と瓜二つの顔を隠すために口元に布を巻いている。
「それでは行ってまいります」
漂は跪いて、恭しく政の手を取った。
そして、政の手の甲に口付けると一礼して立ち上がる。
「武運を祈る」
政の言葉に、漂はもう一度深々と頭を下げて退出していった。
漂の自分へのあの挨拶は・・・たしか三度目だっただろうかと政は思い返す。
三度目でも慣れない。布越しだとは言っても手の甲への口付けには、やはりドキドキしてしまう。
扉のすぐ外には、迎えにきている者達が数名居るはずだ。
顔色は大丈夫かと、部屋を出る前にもう一度政は手鏡をのぞいてみる。
さっきよりもさらに血色が良くなっているのは、きっと漂のせいだろうなと思う。